『華厳経の教え』簡単に解説!釈迦の悟りの世界観、菩薩の修行と善財童子の歴訪

『華厳経の教え』釈迦の悟りの世界観、菩薩の修行と善財童子の歴訪 仏教

仏教には多くの経典が存在します。

その中でも『華厳経』は代表的な経典のひとつといえます。

ところで、『華厳経』とはどのようなお経なのでしょうか。

また、ほかの経典についても紹介しているので、あわせてご覧ください。

華厳経の教え

『華厳経』は、数多く存在する仏教経典の中でも代表するお経です。

正式には『大方広仏華厳経』といいます。

『華厳経』の歴史と世界観

『華厳経』は、釈迦が悟りを開いたあと、その内容が壮大な世界観として説かれた経典であるといえます。

「大方広仏」とは、時間と空間を包含した宇宙全体に働く仏のことをいいます。

「一微塵の中に全世界が反映し、一瞬の中に永遠の時間が含まれる」という「無尽縁起」と、「あらゆるものは縁によって起こり、宇宙の万物は互いに関係しあって無限に生成し発展していく」という事々無碍を根本思想としています。

すべてを別々の個体として認識している私たちの常識を覆す、無限に広がる広大な世界を形成しているのです。

『華厳経』では、さまざまな場面を設定して、仏となるための菩薩の行いが説かれていきます。

たとえ話や物語などを駆使して説かれる大乗経典のなかでも、とりわけ幻想的で神秘的な『華厳経』の世界は、ほかの経典を圧倒しているようにみえます。

『華厳経』では、釈迦の直弟子で、智慧第一とうたわれた舎利弗や神通力第一といわれた目連でさえも、釈迦の神秘的な力で示す仏の世界が見えなかったと説かれています。

それは、大乗仏教の教えを説く『華厳経』が、小乗仏教と比較して勝れていることを示しているとされています。

『華厳経』の漢訳には、北インド出身の仏陀跋陀羅の60巻本、中央アジア出身の実叉難陀の80巻本のふたつの全訳と、北インド出身の般若三蔵の「入法界品」のみを訳した40巻本があります。

また9世紀末ころには、チベット語にも訳されました。

『華厳経』のサンスクリット語の完全な原本は見つかっておらず、サンスクリット原典が残っているのは「十地品」と「入法界品」のみです。

これらは、2~3世紀に活躍した南インドの龍樹の著書にも引用されており、『華厳経』のなかでもっとも古い部分とされ、それぞれ独立の経典として用いられてきました。

それが現在の『華厳経』のかたちとして集大成したのが4世紀頃だといわれています。

『華厳経』の構成

『華厳経』では、釈迦の説法が行われた場所を「会」、仏典の中の章のことを「品」とあらわしています。

60巻本の「六十華厳」では「八会三十四品」、80巻本の「八十華厳」では「九会三十九品」という構成になっています。

経典では、釈迦が菩提樹の下で悟りを開いたところから始まります。ここでは『華厳経』の教主である毘盧遮那仏と釈迦が同一視されており、多くの菩薩たちによって釈迦が得た悟りの境地が語られます。

その後場所を移し、文殊菩薩が四諦という苦、集、滅、道の四つの真理について説き、ほかの菩薩はそれぞれの奥深き教えを説いていきます。

このようにして、釈迦の出身であるマガダ国の地上から、欲界の天宮へと場所を移し、忉利天から最上の他化自在天へと上昇していきます。

説法の進展につれて場所が上昇し、これによって悟りをもとめる修行者の、修行の進展にしたがって向上していく課程が説かれているのです。

その後ふたたび地上に戻り、最後は善財童子の遍歴物語である「入法界品」でしめくくられます。

善財童子の歴訪

安倍文殊院の国宝、善財童子像。出典:安倍文殊院HP

『華厳経』で重要視される部分で「入法界品」があります。

その内容は、善財童子が文殊菩薩の説法を聞いて感激し、菩薩行を体現した普賢菩薩を理想としてもとめ、大乗仏教の階段を踏みながら53人の善知識を訪ねて修行をまっとうする物語です。

善財童子はまず、たくさんの幡で飾られた沙羅双樹の林に行きます。そこに文殊菩薩があらわれて、あまねく一切の真実を照らすお経を、おまえに教えてやろうと告げます。

善財童子は文殊菩薩の足元にひざまづいて、菩薩の大いなる慈悲と智慧とによって、煩悩の海に明け暮れる自分を救ってくれるように頼みます。すると文殊菩薩は、これから指し示す方向に53人の善知識を歴訪して教えを受けなさいと告げるのです。

善財童子は、普賢菩薩がおこした十の大願を体現するために、文殊菩薩にいわれたとおりに歴訪し、大乗仏教の修行を行っていくのでした。

善財童子が教えを請うて訪ねた53人のなかには、男性や女性の出家修行者のほかに、長者、賢者、バラモン、夜叉、外道、医者、さらには少年少女や遊女など、身分や職業の異なるあらゆる階層の人々がいました。53人のうち20人は女性です。

修行の旅を続けた結果、善財童子は最後に、弥勒菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩のところに行き着き、普賢菩薩から仏となることを予言されました。

この物語は、大乗仏教の菩薩のあり方や修行の過程を説いたもので、自己を見つめて他人を尊敬し、多の利益を願って歩む人生こそが菩薩道であることを示しているのです。

菩薩が悟りにいたる10の階段

『華厳経』には「入法界品」とならんで、経典の中核になる品のひとつが「十地品」です。

大乗の菩薩が真の悟りに到達するための修行の過程を、十波羅蜜に配して整理した、菩薩の十段階の境地を示したものです。

十地の階段に進むには、それまでに説かれた十信・十住・十行・十回向という40段階の修行を経なければいけません。

それぞれの修行を終えて、大乗仏教の本格的な正しい智慧を得て仏の悟りに触れて、こころにおおいなる喜びが沸き起こる第一地に入って、菩薩ははじめて凡夫の立場を離れて聖者となります。

そして第二地、第三地と進んでいき、最後の第十地で修行が完成し、菩薩の最高の境地に到達します。

仏の教えの境地を完全に体得したという意味で「法身」を完成したといわれ、体は虚空のように広大に也、智慧は植物に恵みの雨をもたらす大きな雲のように衆生に利益と安楽をもたらすといわれています。

一即一切、一切即一

『華厳経』に登場する毘盧遮那仏は、釈迦に代って説法し、無数の仏国土の各々にひとりずつ住む無数の諸仏と同一であるとされています。

これを軸として、壮大で綿密な世界観が形成されているところに、『華厳経』の特徴があります。

その中心となる思想は、自分と自分をとりまく世界の全体を仏の力によってあらわれたものとみなし、仏と私とが一体であることを示すのです。

ほかのすべての人々や、あらゆるできごとも、すべてひとつとなった命の活動のあらわれです。

これを「一即一切、一切即一」といい、ひとつの世界が無数の世界であるとともに、無数の世界がひとつの世界であると理解するのです。

たとえば、鏡でできている無数の珠は、お互いに他のすべての珠を映しています。ひとつの珠から見ると、ほかの珠を映すはたらきはその珠の中に反映されています。

このように、すべては無限にはたらきあっている世界こそ、毘盧遮那仏そのものであると受け取るのです。

それは、すべては互いに関係することでしか存在しえない「空」の思想そのものでもあります。

最後に

『華厳経』について紹介しました。

『華厳経』には毘盧遮那仏を中心とする広大な世界観が顕されているのが特徴です。

それは、世界のすべては互いにかかわりあって存在していることに他なりません。

現代を生きる私たちも、自分ひとりで生きることができないということを改めて考え直し、『華厳経』の教えを日常生活に活かしていきたいものです。

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