日本の歴史や神話を理解する上で、『古事記』と『日本書紀』は重要な文献として挙げられます。
そして、日本の起源や神話、歴史的な出来事を伝える役割を果たしています。
しかし、実際のところどのような書物か知らない人も多いのではないでしょうか。
また、このふたつの書物にはどのような違いがあるのでしょうか。
ここでは『古事記』と『日本書紀』について、その違いや内容について紹介します。
『古事記』と『日本書紀』の違い
『古事記』と『日本書紀』
『古事記』は、高句麗の学者・政治家である稚日女命(わかつひめのみこと)によって編纂され、712年に成立されました。
神話的な要素が強く、天照大神や素戔嗚尊などの神々の活躍が詳細に描かれています。
神話の時代を中心に据え、神々と人間の交流が強調されているのです。
また、物語や詩歌的な要素が強調された書き方をしていて、神話の時代や神々の活躍が、感情豊かな言葉で描写されています。
『日本書紀』は初代天皇神武天皇から文武天皇までの歴史を紀伝体でまとめたもので、720年に完成しました。
より歴史的な要素を重視していて、公式で堅い書き方をしているのが特徴です。
歴代の天皇の事績や出自、重要な政治的出来事が冷静かつ厳粛に記述されています。
神話だけでなく、歴史的な事実や出来事にも焦点を当てていて、天皇の即位や戦争、政治的な変遷が詳細に綴られています。
『古事記』と『日本書紀』の編纂の目的
『古事記』と『日本書紀』では、編纂されたときの意図に違いがあります。
『古事記』は天皇家の歴史を書き記すことが目的でした。
対して『日本書紀』の目的は、日本という国の成立を記すことだったといわれています。
『古事記』は712年、『日本書紀』は720年と、編纂には僅か8年の違いしかありません。
それにも関わらず、このような大作が国を挙げて作られた背景には、このような目的の違いがあったからだということができるでしょう。
『古事記』について
『古事記』について、詳しくみていきましょう。
『古事記』の編纂
『古事記』は、第43代の女帝、元明天皇の勅命によって編纂され、712年に成立しました。
序文によると、
「元明天皇の叔父にあたる天武天皇が、皇室および諸氏族に伝わりながら散逸してしまった『帝紀』と『旧辞』という古い歴史書にある天皇の系譜や伝承を整理、統一しようと企画した。そこで、極めて記憶力の優れた 稗田阿礼(生没年未詳)に、それらを誦習(繰り返し声に出して読み習うこと)させたが、やがて天武天皇は崩御してしまう。元明天皇がこの事業を引き継ぎ、阿礼の言葉を書き起こし、編纂するよう太安万侶(?~723)に命じた」
とされています。
『古事記』は、天武天皇(?~686)および元明天皇(661~721)の事業として、皇室および諸氏族の伝承を整理、統一したものです。
現存するわが国最古の歴史書であると同時に、神話や伝説、歌謡といった創造性豊かな内容を多く含んでいることから「日本で最初の文学作品」として高く評価されています。
『古事記』の内容
上巻では天地開闢、 伊邪那岐命・伊邪那美命 の国生みなどの世界と国の成り立ちにまつわる神話が描かれています。
中巻・下巻は初代の神武天皇(生没年未詳)から第33代推古天皇(554~628)までの系譜や物語が皇位継承順に沿って書かれています。
特に下巻は極めて記録的、現実的な内容であることから、天皇の実在性を根拠づける資料ともなっています。
文学作品としての価値
『古事記』編纂当時の日本には、まだ話し言葉をあらわす文字(ひらがな、カタカナ)がなかったため、文章はすべて漢字で書かれました。
特に歌謡は一字一音式の仮名(万葉仮名)で表記されています。
例えば、
「夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曽能夜幣賀岐袁」
の歌は、
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」
のように書き下すことができます。
「八雲立つ」は地名「出雲」にかかる枕詞で、後世の『古今和歌集』では、これが「和歌」の始まりであると指摘しています。
以来、「八雲」は「和歌」のことを指すようになりました。
『古事記』は『日本書紀』に比べ、漢文の拙さや変則性も目立つことから、国史編纂事業としては初歩段階だともいえます。
しかしその内容は、奈良時代までに伝わっていた古代人の感情や様子が生々しく躍動的に描かれていて、文学的な評価は極めて高いといわれています。
『古事記』は日本最古の書物
『古事記』は、現存する「日本最古の書物」としても知られています。
しかし、原本は残っていません。
3巻の揃ったものとしては、およそ600年後の14世紀末、南北朝時代に書かれた写本(「真福寺本」)が最も古く、国宝に指定されています。
ちなみに、江戸時代の国学者・本居宣長は、『古事記』こそ、外国の影響を受けていない日本の本質(道)を知るための第一の資料だと説き、注釈書『古事記伝』44巻を著しています。
『日本書紀』について
つづいて『日本書紀』について詳しくみていきましょう。
『日本書紀』の編纂
『日本書紀』は、『古事記』の成立からわずか8年後の720年に完成しました。
『古事記』と『日本書紀』は合わせて「記紀」と呼ばれ、日本文学の始まりを告げるものといわれています。
『日本書紀』の編纂も、きっかけは『古事記』と同様に、天武天皇(?~686)の勅令によるものでした。
天武天皇は、兄である第38代天智天皇(626~672)の第2皇子、川島皇子(657~691)ほか、臣下12名に命じて、『帝紀』『旧辞』のほか、政府の記録や寺院の縁起、個人の手記など、膨大な資料をもとに、国家の公式な歴史となる「正史」の作成を開始しました。
資料の中には『百済三書』など国外の記録も含まれていました。
完成までには、約40年もの期間がかかり、天武天皇の死後、天武天皇の孫(元明天皇の皇女)にあたる第44代元正天皇(680~748)に対して、記30巻と系図1巻が、天武天皇の第3皇子、 舎人親王(676~735)らによって上奏されました。
『日本書紀』編纂の背景
遣唐使の開始、百済と高句麗の政変、白村江の戦いなど、中国大陸や朝鮮半島との関係が強まり始めたことから、天皇および政府はその正統性を国外に表明しなければならなくなりました。
そこで取り組んだのが『日本書紀』の編纂でした。
巻数は『古事記』の10倍にもなりますが、収録されている歌謡の数はほとんど変わらず、神話のエピソードも大部分が省略されています。
また、出来事を年代順に記載する「編年体」という形式をとっていて、歌謡部分以外は、ほぼ純粋な漢文で書かれています。
この形式と文体は中国の正史にならったものであり、このことから『日本書紀』の編纂が、外交的な性格を持つ事業であったことがわかります。
『日本書紀』の内容
『日本書紀』が30巻で扱うのは、神代に始まり、初代神武天皇(生没年未詳)から第41代持統天皇(645~702)までの歴史です。
最初の2巻のみが神話の時代にあたり、『古事記』に比べると、全体に占める割合は格段に少なくなっています。
『日本書紀』の成立後は、平安時代の前期にかけて『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』の5つの史書が相次いで編纂され、第58代光孝天皇(830~887)までの皇室の系譜、歴史が公式にまとめられました。
のちにこれらは「 六国史」と呼ばれるようになります。
しかしこれ以降は国史編纂が実現せず、明治期に始まった『大日本史料』の編纂が、第59代宇多天皇(867~931)から第121代孝明天皇(1831~1866)までの欠落部分を埋めるために続けられています。
『大日本史料』の編纂の対象となるのは980年間(887~1867)で、東京大学史料編纂所によって現在も続けられています。
文学的な価値
『日本書紀』は『古事記』に比べて、格段に「歴史書」としての性格を強くもっていますが、古代の言語や文章に関する貴重な資料として文学的にも評価されています。
完成した720年当時、純粋な漢文を読める人はほとんどいませんでした。
そこで翌年には、博士(朝廷の職名)が貴族に『日本書紀』の内容を講義する機会が設けられました。
『古事記』編者の太安万侶(?~723)も博士の一人であるとされています。
開講から閉講までは数年を要したといわれています。
さいごに
『古事記』と『日本書紀』の違いについて紹介しました。
このふたつは、編纂された目的や経緯が違うことから、内容も違うものになっています。
私たち日本人が住む国の始まり、歴史が記されたものなので、知っておきたいことですね。