日本の仏教の始まりの地である奈良。
奈良時代の仏教はどのようなものだったのでしょうか。
出家して僧侶になるためにはどんな資格が必要だったのでしょうか。
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奈良時代の仏教
奈良時代の僧侶は朝廷の許可が必要だった
奈良時代は、古代の東アジアにおける律令国家のように、日本でも僧侶や尼僧の出家得度が、国の統制を受けていました。
実際には「年分度者」という、出家に関する人数制限が決められていました。
具体的には「僧尼令」などの国家の規律によって、毎年の出家得度者の定員が限定されていたのです。
また、これら定数以外の出家得度の制度としては、例外的に皇帝や天皇の恩寵としての「特恩度僧の制度」や、国家の財政面から実施された「売度の制度」などがあった。
奈良時代に僧侶になること自体が、現代でいう国家公務員になることに等しかったのです。
つまり、出家得度をすることについては、朝廷の許可が必要だったということなのです。
また、出家得度は試験のような面もあり、実際には仏教教学を学び、得度を受け、合格すれば正式な僧尼になれるといった性格のものでした。
全国3カ所の戒壇院でのみ出家できた
出家者が正式な僧侶や尼僧になるためには、必要な戒律を受けなければいけませんでした。
そのために設置された施設を「戒壇院」といいます。
当時、授戒をするための戒壇院は全国に3カ所ありました。
- 大和の「東大寺」
- 下野国の「薬師寺」
- 筑紫国の「観世音寺」
奈良時代から平安時代初期に出家した年分度者の僧尼は、この3つの寺院のどこかで受戒をして、はじめて正式な僧侶あるいは尼僧となったのです。
歴史をたどると、毎年正月、御斎会が行われる頃、宮中で得度式が行われたと伝えられています。
696年12月、宮中金光明会に備え、浄行者10人の得度を定めたことに始まります。
当初は、新年の除災招福、鎮護国家のためにおこなわれたといわれています。
国家仏教から各宗宗派へ変わっていく
平安時代に入った798年には、年分度者の資格や試験がより厳しく定められました。
また、806年には、得度式にのぞむ出家者の人数を、南都諸宗に天台宗の2人を加えて合計12名とし、835年には新に真言宗の3名の得度が許されることになりました。
その後も若干の増員や特定の寺院に人数が割り当てられることもありました。
いっぽう、一度に100人から1000人も得度するという、大量得度が行われた時代もあるといわれています。
鎌倉時代、武家の世を迎えると、奈良時代に始まった僧尼の国家公務員のような性格は次第に失われていくことになりました。
出家得度についても、政府の管理から、それぞれの宗派の本山に一任されるようになっていったのです。