『般若経』は紀元前後から一世紀なかばごろまでに原初形態が成立しました。
大乗経典のなかでもそれを代表する『般若経』。
しかし、その内容は膨大であり、難解であるといわれています。
ここでは、『般若経』の教えについて、簡単に紹介します。
また、ほかの経典についても紹介しているので、合わせてご覧ください。
『般若経』の教え
『般若経』は『般若波羅蜜多経』ともよばれます。
「般若」とはサンスクリット語でプラジュナーといい、その俗語であるパーリ語ではパンニャといい、それを音写したもので、「智慧」という意味があります。
智慧とは、ものごとを正しく見る力のことで、悟りを開いてようやく身に付く力のことです。
「波羅蜜多」はおなじくパーラミターの音写で、「到彼岸、向こうの岸にわたる」という意味があり、近年では「完成」という意味で理解されています。
つまり「般若波羅蜜多」とは、「智慧の完成」という意味になり、智慧を完成して悟りを開くことを人々に教えるのが、この『般若経』の教えになるのです。
600巻にわたる広大な『般若経』
『般若経』は紀元前後から一世紀なかばごろまでにその原型が成立しました。
ひとくちに『般若経』といっても、『小品般若経』『大品般若経』『金剛般若経』など、多くの般若経典が存在します。
『般若経』とは、それらの数々存在する般若経典群の総称をいいます。
三蔵法師の名で知られる唐の玄奘は、16年かけてインドへ旅をし、多くの経典を持ち帰り、漢訳をしました。
その中でも代表的なもののひとつが、『大般若経』です。玄奘はインドから帰国したのち、3年あまりの歳月をかけて『大般若経』600巻を漢訳しました。
なじみのある『般若心経』
般若経典群のなかに『般若心経』がありますが、これは日本人には特になじみのある経典です。
大乗仏教の基本思想である「空」の思想を説く般若経典の神髄を、わずか300文字たらずにまとめた経典で、一部の宗派をのぞきほとんどの宗派で日常的に読まれています。
サンスクリット語の原典は古くから日本に伝えられました。漢訳は、日本で広く用いられている玄奘の訳をふくめた7本と、サンスクリット語を漢字で音写した1本が現存しています。
また、おびただしい数の註釈や講義、解説書が作られ続けています。これは、それだけ人々になじみのある経典であると同時に、『般若経』の教えがそれだけ難解であることを思わせます。
写経も盛んにおこなわれ、観自在菩薩によって説かれた経典であることから、観音霊場の札所の巡礼をする人たちのあいだにも『般若心経』を写経して奉納することがおこなわれ、巡礼には欠かせないものになっています。
「空」の思想
『般若経』ではなにものにもとらわれない「空」の思想が説かれています。
「空」とはサンスクリット語のシューンニャの訳で「空っぽ、何も入っていない状態」という意味をもっています。これが『般若経』の中心思想になります。
この世の中に存在しているありとあらゆるものの存在は「空」にほかならず、「空」がまたその存在にほかならないということで、『般若心経』の中には「色即是空、空即是色」と出てきます。
この世の一切の物質や現象は、因縁の関係の上になりたっています。確固たるもの、実体のあるものはなにひとつなく、お互いのかかわりの中でしか存在することができません。
例えば、人間の体を頭、手、胴体、足などとばらばらに分解していったとき、さてそれでは「私」という存在はどこにあるのでしょうか。頭をもって「私」というのか、それとも胴体をもって「私」というのか。
さらには、人間を構成している37兆の細胞を全部ばらばらにしたとき、どこに「私」がいるのでしょうか。
つまるところ「私」は37兆個の細胞の集まりでしかないということなのです。仏教の教えでいえば、色、受、想、行、識の五蘊で構成されているにすぎず、確固たる「私」という存在はないというのです。
反対にいえば、五蘊という物質で構成されている、あるいは37兆個の細胞でようやく「私」というものが見える形で表れているということです。
もう少し広い目線で見ていくと、たとえば家族も同じです。「〇〇家」と呼ぶにためには、たとえばお父さんとお母さんと、子どもと孫がいて、全員そろって〇〇家がようやく存在することになるのです。
父親がひとりだけいたところで、〇〇家にはならないし、そもそも子どもがいて初めて父親という存在が成立するのです。
同じように、社長と部長と課長と社員全員がそろって〇〇会社という会社が存在し、一億3000万人の人がいて日本という国が存在し、60億人の人と生きとし生けるものが存在して世界が成り立っているのです。
これが「空」ということです。固定的、実体的なものは何一つないのです。
すべては関わり合いの中で存在し、お互いに関わりあうことでようやく「私」という存在を認識することができるのです。
それにもかかわらず、実体がないのに実体があると錯覚し、確固たる「私」は存在しないのに「私」が存在すると錯覚し、そこに執着してとらわれ、自ら苦しみの道に落ちているのです。
こうした間違った考えから離れて、この世は「空」であるとみることで、悩みや苦しみから解放され、悟りの境地に至ることができる、すなわち般若とよばれる智慧の完成にいたることができるのです。
六波羅蜜の実践
『般若経』では「空」を理解し、智慧の完成を目指すための修行が説かれています。
これを「六波羅蜜」といい、菩薩が仏となるために納めるべき修行であるといいます。
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの波羅蜜のことをさし、これらの行いによって自分自身の精神を最高の所に到達させることが、菩薩の行うべき修行であると説かれています。
- 「布施」物惜しみをせずに与えること
- 「持戒」悪いことをせずいいことをする
- 「忍辱」じっと耐え忍ぶこと
- 「精進」一生懸命に励むこと
- 「禅定」あわてず騒がず落ち着いた心をもつこと
- 「智慧」ものごとを正しく見ること
最後に
『般若経』について紹介しました。
『般若経』の思想は難解であり、なかなか理解しがたいところがあるといわれますが、その思想の中心は「空」です。
「空」とは、ものごとや現象には確固たる実体がなく、すべてはお互いの関わり合いの中でしか存在することができないということです。
そして、そうした思想を理解するために六波羅蜜という具体的な修行が説かれています。
ぜひ、それらの修行を実践していきましょう。