お葬式や法事など、仏事の時にお坊さんに渡すお金を「お布施」といいます。
しかし、本来お布施というのはお坊さんにお経を読んでもらった対価ではありません。
ここでは、お布施の本当の意味について紹介します。
お布施の本当の意味とは?
布施とは、出家修行者や仏教教団、さらには困っている人などに対し、何かしらのモノを施し与えることをいいます。
それはお金に限らず、衣類や食事、また何かしらの行為であっても、布施といいます。
例えば、アンパンマンが困っている人を助けるようなものです。おなかをすかせている人がいたら顔をちぎって食を与え、誰かと出会ったら優しい言葉をかけ、泣いている人があいたら助けてあげる。
見返りを求めることなく、助けを求めている人に対してモノや行為を与えてあげることのすべてが、布施なのです。
布施は古代インドから行われていた
布施と聞くと仏教特有の言葉というイメージがありますが、実は仏教が生まれる以前から布施は行われていました。
仏教が誕生したのは今からおよそ2600年前。ブッダによって説かれました。出家をして、世俗を離れて修行することによって、悟りを開くことを目的にとかれた教えが仏教です。
実は、出家をして修行をしていたのは、仏教の修行者だけではありません。それ以前から、出家という行為は当たり前のように行われており、インドの至る所に出家修行者がいました。
出家した人は、修行をする代わりに仕事を放棄した人です。畑を耕して食べ物を作ったりもしないし、モノを売ってお金を稼ぐこともしません。つまり、自分たちで生産して生きていくすべを持たない人です。
そんな人が生きていくためには、方法がひとつしかありません。それは、誰かに食べ物を恵んでもらうとことだけです。
出家修行者は、経済活動をしている一般在家の人たちから、食事やモノを恵んでもらい、命をつなぎ止めていました。これを布施といったのです。
なぜ布施をするのか?
では、一般在家の人は、なぜ出家した人たちに対して食べ物やモノを分け与えたのでしょうか?
それはインド古来の考え方によるものです。
インドでは「業(ごう)」というものが信じられ、業の力によって「いいことをすればいいことがある」「悪いことをすれば悪いことがある」と考えられていました。
さらに、業の力によって「いいことをすれば死んだあとにはいいところに生まれる」「悪いことをすれば死んだあとには悪い所に生まれる」と考えられていました。
その「いいこと」のひとつが、布施です。
出家修行者に対し、食事やモノを施し与えることによって、それが大きな功徳となって自分に返ってきて、いいことがあると信じていたのです。
だから在家の人は、一生懸命になって出家者に布施をするのです。
出家と在家はもちつもたれつ
これらのことをふまえると、出家者と在家者はお互いに持ちつもたれつの関係だということがわかると思います。
つまり、
- 出家者は在家の施しによって生計をたてる
- 在家者はよりよい生活のために出家者に施しをして功徳を積む
布施は、出家者と在家者のそれぞれのよりよい生活のためのシステムなのです。
タイやスリランカなどの東南アジアでは、今でも2600年前のブッダ生前時と同じような生活をしています。仏教の出家者だけで集団となって生活し、サンガという共同体をつくって生活をしています。日本のお坊さんのように家庭を持ったり、仕事をするなどして生計を立てるようなことはしないので、収入はありません。そこで、托鉢を行って人々から食べ物などを施してもらい、生活をしています。
在家の人たちは、出家者に布施をすることによって自分にいいことが返ってくると信じています。それも、多ければ多いほど、たくさんの功徳があると考えているので、毎日托鉢に来るたくさんのお坊さんに対して食べ物などの布施をしているのです。
お坊さんはお金は受け取れない
日本では、当たり前のようにお金でお布施をします。
しかし本来、仏教の修行者はお金を受け取ることができません。それは「律」という仏教の出家集団に適用される規則において決まっているからです。
しかし、お金を布施したいという人がいたとき、それを断ってしまうとその人の気持ちを無碍にしてしまうことにもなります。そこで、出家僧団のお世話をしている、修行をしない一般の人が代わりに受け取ります。そしてその人が管理し、必要に応じてお金をモノに変え、修行者のために活用しているのです。
お布施は対価ではない
これらのことをふまえると、お布施は読経などの対価ではないということがわかると思います。
在家の人たちは、自分が少しでもいい生活ができるように、幸せになりますようにと願い、そのための功徳を積むためにお布施をしているのです。
いうなれば、自分の気持ちで、お布施をしたいからしています。だからお布施は「お気持ちで」という表現をするのです。
日本でもかつてはモノや行為によって、お寺やお坊さんに対して布施を行っていました。ところが、現代ではそのほとんどがお金に代わりました。
お金に代わると、今度ははっきりした金額が気になるようになってきます。明確な答えが知りたいと思う人が多い今、お布施の金額も明確に知りたいと思うのは当然だと思います。
またお坊さんの方も、「金額を明確にしてあげた方がわかりやすい」と考え、お葬式はいくら、法事はいくらとお布施の金額を決めている人も増えてきました。
そうして次第に「お坊さんの読経に対する対価」へと代わっていってしまったのです。
本来お布施は「自分の功徳を積むための行為」であることを、忘れてはいけません。
大きく分けて三種類の布施がある
布施には大きく三つに分けることができます。
- 財施
- 法施
- 無畏施
財施(ざいせ)
ひとつは「財施」です。
これは相手に対して、お金や衣類、食べ物など、モノを施し与えることをいいます。
「財」という字を書きますが、金銭のみならず、自分の持っているモノ「財産」を相手に与えることはすべて財施です。
葬儀や法事など、施主がお坊さんに対してお金でお布施を渡すのは、この財施にあたります。
法施(ほうせ)
相手に対して仏教の教えを説くことを「法施」といいます。
お坊さんが行っている説教や法話がこれにあたります。また、お葬式や法事で読経することも、法施です。
布施は、相手に対して見返りを求めることなく施し与えることをいいます。それはお坊さんの読経や法話も同じです。
「法事で読経をするために○○円のお布施を包んでください」と言うのは、本来はお布施にはあたりません。
できることなら、家族の人が自分たちで読経し、故人を供養し、自ら仏道修行に励んでいくべきところですが、なかなかそれができません。そこで代わりにお坊さんが読経し、仏事をきっかけにして仏教の教えを説いているのです。
無畏施(むいせ)
他人から恐怖や畏れる心を取り除いてあげることを「無畏施」といいます。
「無畏」とは、畏れや恐怖の無いという意味があります。
人が不安になるのは、わからないことにおびえ、畏れているからです。
いつ死ぬかわからないことに畏れているから、不安が生じ、苦しみに代わるのです。
こうした不安を取り除いてあげることも、大切な布施の一つなのです。
財力が無くてもできる「無財の七施」
「うちにはお金がないのでお布施が払えません」という言葉をよく聞きます。
しかし、今まで見てきたように、本来お布施は見返りを求めずに施しをすることであり、お布施に決まった金額はありません。
また、モノを相手に与えることだけがお布施でもありません。
仏教の中には、お金やモノなどの財産が無くてもできるお布施が説かれています。これを「無財の七施」といいます。
- 眼施
- 和顔悦色施
- 言辞施
- 身施
- 心施
- 床座施
- 房舎施
眼施(げんせ)
相手に温かいまなざしを向けること。慈しみの眼で見て相手と接することをいいます。
「目は口ほどにモノを言う」という言葉がありますが、声に出して気持ちを言わなくても目で相手に伝わるというものです。
腹が立ったとき、それを声や行動に出して怒りを表現すること無くじっと耐えることができても、目がおこっていれば相手に伝わってしまします。
いつも慈しむまなざしを持っていなければいけません。
和顔悦色施(わげんえつじきせ)
和やかな顔で相手と接すること。いつもにこやかで喜び、穏やかな表情であることです。
目つきは大事ですが、それに合わせて表情も大切です。
また、疲れたような顔をしていたり、苦しい顔をしていれば、相手に対して心配をかけたり、相手が不安になったりもします。
言辞施(ごんじせ)
言葉によるお布施のこと。相手に対して柔らかくて思いやりのある言葉をかけてあげることです。
気をつけなければ、言葉は相手を傷つけるナイフになります。ほんの些細な一言でも、それによって相手を不快にさせ、悲しませることのできるものです。
ブッダは、人は生まれながらにして口に斧を持っていると言いました。
だからこそ、言葉には気をつけて行動していく必要があるのです。
身施(しんせ)
体を使って行うお布施のこと。相手を敬い、自分の身を惜しむことなく相手に尽くしていくことをいいます。
例えば、家に上がるときは靴をそろえる、困っている人がいたら助けてあげる、代わりに荷物を持ってあげるなど、自分の体を使ってできることです。
しかし、言うは易く行うは難しいのも、この身施ではないでしょうか。
困っている人を助けるのは人として当たり前のこととされながら、実際に声をかけて手助けしている人はほんの一部です。ほとんどの人が、見て見ぬふりをしてしまいます。
積極的に行動していきましょう。
心施(しんせ)
いい心で相手に接すること。
人の行動のすべては、心から生じます。心をきれいに保たなければ、目にも表情にも言葉にも行動にも表れてきません。
悪をもって相手と接すれば、必ず相手を傷つけることになります。相手を傷つけることは、回りまわってその報いは自分にふりかかり、いつか自分が傷つくことになります。
自分勝手な思いを捨てて、相手を思いやり、相手の立場になってものごとを考えていくようにしましょう。
床座施(しょうざせ)
相手に座席を用意したり、自分の場所を譲ること。
これは、プライドを捨てて下座に回ることを教えています。
自分のほうがえらい、自分のほうが立場が上だとプライドを持っていると、相手との争いの原因になります。
房舎施(ぼうしゃせ)
自分の家を一夜の宿として相手に貸すこと。
昔は、今ほど簡単に宿泊場所を用意することができなかったので、一般の家に一夜の宿を止めてもらうということもよくありました。
特にお遍路さんなど、巡礼をしている人を家に泊めてあげることは、それだけで大きな功徳があります。
現代では、見ず知らずの人を自宅に泊めるということは難しいかもしれません。しかし、寝る場所に困っている人を、快く泊めてあげることは、他者に対する大切な布施の一つなのです。
お布施の相場を知る前に
お布施は、お葬式や法事など仏事を行ったときに、お坊さんに対する読経のお礼として支払う金銭のことではありません。
つまり、本来お布施は読経や法話の対価ではないのです。
お葬式や法事をきっかけに、お坊さんは故人の供養のために読経して法を説き(法施)、施主はお坊さんにモノを施して功徳を積む(財施)のです。
これこそがあるべき本当のお布施の形なのです。
ネットで調べれば、お布施の相場はいくらですと紹介されています。しかし、お坊さんに聞くと「お布施はお気持ちで」と言われることが多いと思います。
その理由は、これまでに紹介した通りで、対価ではないからです。
お布施の相場を知る前に、本当のお布施の在り方を知っておきましょう。
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