ブッダの教え『ダンマパダ(法句)』について、ここでは「第一章」の法句一、二について、その内容について紹介します。
意を主に意より作られる
もろもろの法は意を先に 意を主に意より作られる
もしも汚れた意をもって 語り、あるいは行えば
それより苦が彼に従う 牛足跡の車輪のように
(法句一)
チャックパーラ長老の物語
この法は、ブッダがサーヴァッティ(舎衛城の祇園精舎)に住んでおられたとき、チャックパーラ長老について説かれたものです。
伝えによると、人生半ばに出家した長老は、たとえこの目が潰れようとも悟りに至るようにと、不眠不休で修行に励みました。そしてついに最上の悟りを得ることができました。しかし、同時に失明しで目が見えなくなってしまいました。
ある日、長老は経行処(歩く瞑想をするところ)でおもむろに歩いたところ、気がつかないままに多くの虫を踏み潰してしまいました。
翌朝、外から来た比丘たちがそれを見て驚き、ブッダに申し上げました。「長老は経行をして多くの虫を殺してしました」と。
ブッダは彼らに「そなたたちは長老が虫を殺しているところを見たのですか?」と尋ねられました。
「いいえ、尊師よ」と比丘たちは答えました。
ブッダは「そなたたちが見なかったように、かれも虫を見なかったのです。煩悩が断たれている者に殺意はありません」と言いました。
「では、なぜ阿羅漢となる機根をそなえていながら、目が見えなくなってしまったのでしょうか」
「それは、かれが前世において医師でありながら、治療後に報酬の約束を破った貧しい女性患者に腹を立てて、別の薬で盲目にさせたからです」とブッダが言いました。
これを因縁に、ブッダはこの法を説かれました。
ものごとは心が作り出す
ブッダの教えは因果の法則に基づいています。すなわち、世の中は縁起によってなりたっています。悪いことをすれば悪いことが自分に返り、いいことをすればいいことが自分に返ってきます。ここにはいかなる例外もありません。
自分自身の苦しみも、自分自身の行いから生まれているということです。
この偈では「意」つまり心が始まりであり、どんな行為、業もすべて心から始まることを教えています。
私たちの行いは身(身体)・口(言葉)・意(心)の三業から生まれますが、中でも意こそが先にいく大事なものだということなのです。
心(意)が汚れていれば、そこから生まれる自分の行動(身)も、口から出てくる言葉(口)も悪となり、そこから苦しみが生じることになります。
清き心をもっておこなえば「法句二」
もろもろの法は意を先に 意を主に意より作られる
もしも清き意をもって 語り、あるいは行えば
それより楽がかれに従う 離れることなき影のように
「法句二」
マッタクンダリーの物語
ブッダがサーヴァッティ(舎衛城の祇園精舎)に住んでおられたとき、マッタングリー少年について説かれたものです。
マッタングリー少年は、アディンナプッバカという大変ケチで金持ちのバラモンの子として生まれました。16歳の時、彼は黄疸を患いました。しかし父親は、彼を医師に診せることを嫌がり、その処方だけを聞いて自ら薬を調合しました。そのためにマッタングリーは危篤に陥りました。しかし、それでも父親は、見舞いの人々が家の財宝を見てほしがらないように、彼を外に運び出すというような様子でした。
その日ブッダは、仏眼をもって世界をご覧になりました。そして「この少年は私に対して心を清めて死んでいく。しかし三十三天の黄金宮に生まれ変わるであろう」と知り、彼のマッタングリー少年のところに趣きました。彼はブッダの一条の光によって仏に近づくことができました。
しかし「愚かな父親のために、ブッダのもとに近づきながらブッダの身の回りのお世話も施しもできない。法を聞くこともできない。今の私には手を合わせることすらできない」と思って、ただ心のみを清めました。
ブッダは「この少年にはこれだけで十分である」と知って立ち去られました。マッタングリー少年は死んで展開の黄金宮に生まれ変わりました。
父親は少年を火葬しました。しかしその後、毎日墓所に行っては「わが息子はどこに」と言って嘆き悲しみました。そこへ天子に生まれ変わったマッタングリー少年が現れて、父親にすべてを話しました。父親はブッダに帰依する者となり、多くの財産を施したといいます。
これがこの偈の因縁話です。
善を行えば楽を生む
この偈では、清らかな心をもって語り、行動する者は、常に安らぎがあることを教えています。
「法句一」と「法句二」は、内容的には対になっていて、対照的なことを説いています。
法句一は「汚れた意をもって語り、行動すれば、それより苦がかれに従う」
法句二は「清き意をもって語り、行動すれば、それより楽がかれに従う」
仏教の根本的な考え方が、ここには含まれています。すなわち、善因善果、悪因悪果です。
いいことをすれば、その報いとしていいことが自分に返ってくる。悪いことをすれば、その報いとして悪いことが自分に返ってくる。
どんな時でも、どんな場所でも、悪い心を離れてもっぱらよい行いをしていくようにと教えています。