ブッダの生涯から学ぶ仏教の教え

ブッダの生涯から学ぶ仏教の教え 仏教

仏教の教えは難しく感じるところがあるかもしれません。

それは、考え方が普通の考え方とは違ったり、特殊用語が多いところにあるように思います。

ここでは、基本的な仏教の教えを、ブッダの生涯を通して解説していきます。

ブッダの生涯と仏教の教え

ブッダの生涯

仏教の開祖をブッダといいますが、もとの名前をガウタマ・シッダールタといいます。もとはインドの北部にある釈迦族という小さなの国の王子として生まれました。ブッダを釈迦というのは、この部族の名前に由来するのです。

シッダールタは、生まれて7日後に母親と死別します。そして養母によって育てられますが、一国の王子として裕福で恵まれた生活を送っていました。そして、16歳で結婚し、子どもラーフラも生まれました。

ところが、生老病死の苦しみや、世の中の無常を感じ取り、29歳で出家をします。

先に出家をしていた人たちのもとに弟子入りをして修行をしたり、自らの体を痛めつける苦行を行ったりして、6年を過ごします。しかし、これまでの修行や苦行が、真の幸福への道ではないと気づき、菩提樹の下へと座ると、深い瞑想に入りました。

そして35歳の満月の夜、シッダールタはついに悟りを開き、真の幸福を得たのです。

「ブッダ」とは「目覚めた人」という意味の古代インドの言葉です。苦しみの闇から解放されて悟りを開き、真の幸福に目覚めた人なので、そのように呼ばれるのです。

ブッダは始め、自分の理解した心理の法則はあまりにも難解で誰にも理解されないだろうとの思いから、一人でこの喜びを味わっていました。しかし、梵天の願いによって説法することを決心し、かつて苦行をともにしていた5人の修行者に教えを説きました。

説法を聞いた5人はブッダの弟子となり、ここに初めて仏教が成立したのです。

以降ブッダは、80歳で涅槃に入るまで45年間、各地を巡って布教活動に励み、人々を救ったのです。

みんながすべて等しく尊い「天上天下唯我独尊」

ブッダは現在のネパール南部にあるルンビニーというところで生まれました。そしてすぐに7歩歩いて、右手を上に、左手を下に向けて「天上天下唯我独尊(天上にも天下にも、唯われひとり尊し)」と宣言したと伝えられています。

「天上天下唯我独尊」は、自分は誰よりも尊い存在だという意味でとらえられます。誰の指図も受けずに我が道を行く人を「唯我独尊」と表現したりしますが、少しこの理解は違います。

この言葉の裏には「誰とも比べることがなく」という意味が込められています。「誰とも比べることがなく、みんながみんな、すべてが等しく尊い存在である」という意味で「われ唯ひとり尊し」というのです。

ブッダは生まれたときから、すべての人の平等と命の尊さを感じ取ったというのです。

この世は苦しみで満ちている「一切皆苦」

ブッダは、この世は苦しみで満ち溢れていると説きました。おもに生、老、病、死の4つによって苦しんでいるというのです。

生きる苦しみ、年を取る苦しみ、病気になる苦しみ、死ぬ苦しみからは、誰ひとりとして逃れることができません。

ブッダは一国の王子として生まれ、幼少のころはそういう苦しみからは疎遠な環境で生活していました。ほしいものは何でもすぐに手に入り、毎日豪華な食事や歌踊りなどを楽しむことができるような世界に住んでいたのです。

ところが、ぜいたくな生活は一瞬の喜びしか生み出さず、時がたてばそれはかえって虚しさを生み出します。ブッダは子どものころから、モノを手に入れる喜びは真の幸福ではないことを感じていたのです。

そんなある日、年老いた老人を見たり、病気で苦しみ人を見たり、家族が死んで悲しむ人を見たりしました。どこへ行っても、苦しみが付きまとうことを感じるできごとだったのではないでしょうか。

すべてのものは移ろいゆく

ブッダの教えに「三法印」と呼ばれるものがあります。

「諸行無常」すべてのものは移ろいかわってゆく「諸法無我」いかなる存在も不変の本質をもたない「涅槃寂静」悟りの境地は安らかである

これに「一切皆苦」をいれて「四法印」とする場合もあります。

ブッダは、人間の置かれた状況をそのように理解したのです。

ダンマパダという経典には

 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

 「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

と説かれています。

ものごとは移り変わるのに永遠にそこにあると思ってしまったり、確固たる我がないにもかかわらずあると思ったりしていることが、苦しみの原因であることを明らかに示しています。

苦しみから解放されることができる「四聖諦」

ブッダの教えに「四聖諦」というものがあります。「諦」とは真理のことで、この世には4つの真理があるということです。

「苦諦」この世は本質的に苦しみである「集諦」苦しみには必ず原因がある「滅諦」苦しみは滅することができる「道諦」苦しみを滅するために8つの道がある

ものごとには、必ず原因と結果があります。何もないところにできごとだけがポンと生まれることはありません。必ずそこには何かしらの原因があるのです。

苦しみも同じです。必ず原因があるのです。その原因とは、自分の心です。自分の心が苦しみを生み出し、自分で自分を苦しめているのです。

そして、原因がわかれば対処もできるというものです。自分の心が苦しみを生み出しているならば、苦しみを生み出さない心を作っていくようにすればいいのです。

そのための方法が道諦という8つの道で、これを八正道といいます。

正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定のことです。正しくものごとを見て、正しくものごとをとらえることで、これは「中道」に極まります。

一方の見方にとらわれず、偏ることなく、ものごとをありのままに見てとらえることです。

正しい修行の実践「八正道」

「八正道」は、悟りに至るための正しい修行の実践徳目です。

「正見」正しい見解「正思惟」正しい思い「正語」正しいことば遣い「正業」正しい行動「正命」正しい生活「正精進」正しい努力「正念」正しい心の落ち着き「正定」正しい精神統一

さらに何が正しいのかというと、苦しみと欲楽との両極端に偏ることのない行いを、正しいとします。

欲にふけって楽ばかりしていることは当然悟りにはたどりつけませんが、反対に苦行に打ち込んで体を痛めつけることも悟りには至らないということです。

ブッダは幼少のころ、王子として欲楽の世界ですごしました。また出家してすぐのころは、苦行に励んで体を痛めつける生活をしました。悟りを開いた今、苦と楽の両極端の生活を離れ、その中間に真の見つけたのです。

苦しみと欲楽の中間の道が正しき道であり、これを中道といいます。八正道とは、中道の具体的な実践方法なのです。

ブッダは悟りを開いたあと、かつて一緒に修行していた5人の仲間のもとへとおもむき、法を説きました。そのときに説いた教えが、四聖諦と八正道の教えだったといわれています。

5人の仲間は、ブッダは苦行を捨てて逃げ出したといいました。そんな5人に対して、苦行では悟りを開くことはできないと説いたのです。

お経はブッダの教え

お葬式や法事などで僧侶が称えているお経とは、ブッダの教えそのものです。

インドで説かれたブッダの教えは、パーリ語やサンスクリット語などの言葉を使って書き残されました。

中国にそれらが伝わると漢訳されて、中国で漢訳された経典が日本に伝わり、現在の日本でも読まれているのです。

お経を読むことは大変大きな功徳を得ることができるとされています。

お葬式や法事などでお経を読むことで得た功徳を、故人やご先祖様の追善供養のために振り向けているのです。

そして、そのようにして供養することでまた功徳がうまれ、今度はその功徳は自分に返ってくるのです。

お経については、「お経とは何か」簡単に解説!仏教経典とは?仏教の歴史と経典の成立についてで紹介しているので、合わせてご覧ください。

最後に

ブッダの生涯を通して仏教の教えを見てきました。

教えだけを見ていると難しく感じることがあるかもしれません。

しかし、ブッダの生涯を通してみていくことで、その大切さがわかるのではないでしょうか。

今度は自分と重ね合わせてみることで、生き方の役に立つでしょう。

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