正しいものごとの見方とは?慢心を捨てありのままに見ることの重要性

仏教

ブッダの教え『ダンマパダ(法句経)』について、ここでは「第一章」にある法句11,12について、その内容を紹介します。

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正しいものの見方とは?

不真を真と思いなし また真を不真と見る

かれらは真に至らない 邪悪な考えを持つゆえに

「法句11」

しかし真を真と知り また不真を不真と知る

かれらは真によく至る 正しい考えを持つゆえに

「法句12」

サンジャヤの拒絶

この法は、ブッダがヴェール林(竹林精舎)に住んでおられたとき、二大弟子の勧めをサンジャヤが拒絶したことについて説かれたものです。

ある朝早く、アッサジ長老はラージャガハへ托鉢に入りました。ウパッティサ遊行者は長老を見て阿羅漢に違いないと思い、師の教えを請いました。

アッサジ長老は、ブッダのもとで出家をしてからまだ日が浅く、説明ができないために、「諸法は因より生起する」という偈文の一部分のみを唱えました。それを聞いたウパッティサはただちにその意味を理解して、悟りを得ることができました。

そして早速ウパッティサは、友人のコーリタ遊行者にこれを伝えると、コーリタも悟りを得ることができました。

そこでふたりは、師であるサンジャヤを誘って、「ゴータマブッダの所へ行きましょう」と言いますが、彼はかたくなにその誘いには応じませんでした。「私はこれまで大衆の師としてやってきた。私が彼の弟子になるのは、瓶が桶になるようなものだ」と。

その後、ウパッティサとコーリタのふたりは、師サンジャヤのもとから去って行きました。すると他の弟子たちも、サンジャヤから去ってその園林からいなくなったのです。その様子を見てサンジャヤは、熱い血を吐いたといわれています。

ふたりがブッダのもとへ行き、このことを申し上げると、ブッダは「彼は邪見によって不真を真と捉え、真を不真と捉えたのです。しかしそなたらは賢明さをもって、その逆を捉えているのです」と言いました。

これがこの因縁話です。

慢心を捨てて正しいものの見方をもつ重要性

サンジャヤという人は、自分が今まで大衆の師としてやってきたという慢心から、ものごとを正しく見ることができず、不真を真と捉え、真を不真と捉えました。

不真とは、四資具(衣・食・住・薬)のための説法、あるいは十事(布施・供養・献供・善悪業の果報、この世・あの世・母・父に対する善悪業の果報、化生、真実の沙門バラモンの存在)を否定する邪見の説法の事をいいます。

衣・食・住・薬は、出家した修行僧にとっても生きていくためには必要なものです。しかしそれに対して、もっと服が着たい、いいものが食べたい、いいところに住みたいと欲を持って相手に法を説いてはいけません。また、布施をすることや供養をすることなどについて、その行いには必ず善悪の果報があります。いいことをすればその果報を受けていいことがあり、いいところに生まれます。また悪いことをすればその報いを受けて、いつか悪いところに生まれます。さらには真実を悟った人はいるはずがないと考える出家修行者たちもいました。しかし現にブッダは悟りを得ています。

このように、欲のために法を説き、本来あるべき真実を否定して誤ったものの見方をすることを、不真というのです。この不真を正しいと見ることが、「不真を真と思い」ということなのです。

これは、因果の理法を信用せず認めない立場にあります。

ブッダのいうように、「諸法は因より生起する」のです。つまり物事はすべて原因があり、縁という作用が加わって、結果が生じているのです。布施や供養などによる善悪の果報も、すべては因果の理法の飢えに成り立っているこの世の真理なのです。

 

私たちはついつい自分勝手なものの見方で世の中を捉えてしまいます。そこには、「自分が正しい」という慢心があることに他なりません。

つまらない慢心は捨てて、つねに自分の考えを疑い、邪見を捨ててものごとを正しく見低下なければいけません。

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