邪に置かれている心

ダンマパダ42 仏教

ブッダの教え『ダンマパダ』について、ここでは第3章「心」にある法句42について、その内容を紹介します。

法句42

盗賊に対し盗賊がまた

怨敵に対し怨敵がまた

それより悪くかれになす

邪に置かれている心は

法句42

ナンダ信者の物語

この法は、ブッダがコーサラ地方に住んでおられたとき、牛飼いのナンダ信者について説かれたものです。

かれはサーヴァッティのアナータピンティカ長者の牛飼いとして、牛の群れを世話していました。

多くの財産があたり、王に年貢を納めて、また適時に牛乳などの牛の五味物を持って長者の近くに来て、ブッダにまみえて法を聞いていました。

ときにかれは、ブッダが自分の住処に来てくださるように懇願しました。

ブッダはかれの智慧が熟するのを待ってから出かけて、七日間の布施を受けられました。そして次第説法をされると、その終わりに、かれは預流の聖者の境地を得ました。

それより、かれがブッダの鉢を持ってブッダのあとに従い、遠くへ行くと、ブッダは言われました。

「止まりなさい、信者よ」と。

かれは礼拝して、引き返しました。

そのとき、かれはある猟師によって殺されてしまいました。

ブッダはあとで比丘たちからそのことを聞き、また「世尊が来られなければ、かれの死はなかったのでは」と言われ、それに対してこのように答えました。

「かれには私が来ても来なくても、四方八方のどこに行こうと、死から逃れる術はなかったのです。なぜなら、盗賊も怨敵者も行わないことを、この人々の内にある汚れた邪な心が行うからです」と。

そして、この偈を説かれました。

比丘たちはこの信者の前世を問うことがなく、ブッダもそれを語らなかったといわれています。

これがこの因縁話です。

邪悪な心は

盗賊は自分を憎むものに対して、また怨敵は自分を怨むものに対して、自分の粗暴性、狂暴性から、その妻や子供らを苦しめたり、家を破壊したり、命を奪ったりして、破壊を作り出します。

その行為は、この身体において、この生涯においてのみ、苦しみを生み、命を終えさせるでしょう。

しかし、十の不善業道に向けられた邪悪な心というものは、現世に破壊をもたらすだけではなく、来世にわたって十万の生涯においても、四悪趣に自己を投げ込み、頭をもたげさせることがありません。

このように、邪悪な心はこの世だけではなく、あの世でもいつでもどこでも悪しきことを彼になす、というのであります。

悪をおこなったことの報いは、現世だけではなく、来世にわたり、いつまでもその報いを受け続けなければいけないのです。

心の静まり、無欲や身・口・意の三業を整えることに、真の安らぎがあるのです。

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