ブッダの教え『ダンマパダ(法句)』について、ここでは「第二章」にある法句28について、その内容を紹介します。
怠け心
賢者が努めることにより
怠けを除き去るときは
慧の高楼に登りゆき
憂いを離れて、慧者として
山から大地を見下ろすように
憂いの大衆愚者を見る
法句28
マハーカッサパの物語
この法は、ブッダがジェータ林に住んでおられたとき、マハーカッサパ長老について説かれた教えです。
ある日長老は、ピッパリ窟に住んでいるとき、ラージャガハで托鉢をしました。そして食後、托鉢の食事から離れると、光明を増大させて、放逸の者、不放逸の者、水、地、山などに没する者、あるいは生まれ変わる者、といったもろもろの有情を天眼をもって眺め、坐っていました。
ブッダはジェータ林で坐ったまま、「カッサパは今、どのような住まいに住んでいるのであろうか」と天眼によって調べて、「有情たちの死生を眺めている」と知ることになります。
そして「有情たちの死生というものは、仏の智慧によって限定できるものではありません。母胎で結生識を得て、父母に知らせずに没する有情たちを限定することはできません。カッサパよ、それらを知ることは、そなたの領域ではありません。不放逸の者はそなたの領域です。しかし、没する者、あるいは生まれ変わる者をあまねく知り、見ることは諸仏のみの領域です」
と言って、光明を広げ、面前に坐っているかのようにして、この偈を説きました。
これが法句28の因縁話です。
怠け心は努力で打ち消す
「除き去る」とは、例えば蓮池に入る新しい水が古い水をかき混ぜて、古い水に機会をあたえることなく、それを除き去るようなものです。
そのようにして賢者は、不放逸の相を増大させて、怠け心に機会をあたえず、努力し続ける事によって怠けの心を取り除きます。
その怠け心が除かれている者は、清浄な天眼と称される智慧の高い楼閣に、それにふさわしい実践をみたしつつ、その実践のはしごによって楼閣に登るかのようです。
憂いの矢が抜かれていることによって「憂いを離れている者」が、憂いの矢が抜かれていないことによって「憂いを離れていない大衆」の没したり生まれ変わるのを、山の頂から大地を眺めるように、天眼によって見るのです。
在家であっても、出家であっても、変わることはありません。誰もがその本分において精進すべきであるということを説いています。